そもそも、ビジネスとは、社会課題の解決が目的であったと思います。人が早く移動したり、貨物を輸送したりするために自動車や、鉄道、飛行機が発明され、家で素晴らしい音楽演奏を聴くために蓄音機が発明され、遠方にいる人と会話するために電話が発明され、突然の死により家族が路頭に迷わないように生命保険が開発されました。まさに社会が抱える課題をテクノロジーとサイエンス、人間の智慧で解決してきたのです。それら社会課題のソリューションが、ビジネス・チャンスを生み出してきました。
■自己の探求だけでなく、他者との関係性に目を向ける
マズローの欲求5段階説で現代を読み解くと、現代は、究極の自己実現欲求市場になったと言われています。個人の権利や夫々の個性が重視される世の中でもあり、多くの人が自分探しを始めました。それ自体は悪いことではありません。効率化によって生み出された余暇の時間の過ごし方も大切な人生の要素です。余暇の時間を穴埋めするようなスマホのアプリやゲームも多く存在します。だからこそ、人類は、今、内向きの自己の探求や渇望を満たす方向に進むだけではなく、社会という人と人の繋がりに再び目を向ける時が来ていると思うのです。
サイエンスの発展により、人間は論理的に物事を分析することを身に付けました。人間自身のゲノム解析も進み、人間がどのように作られているかも解明されてきました。しかし、人間が何故人間たり得るかの本質はまだ分かりません。自分をいくら切り刻んで細分化しても、物質によって作られる構造はわかりますが、何故人間なのかは分かりません。人間は究極の社会性動物です。自らを深く理解するためには、内向きの細分化と分析だけではなく、開かれた社会における人と人の関係性にもっと目を向けるべきだと思います。他との関係において自己を理解することの重要性は今後益々高まるでしょう。そこには必ず重要な物語が含まれているはずです。
■「繫がり過ぎた社会」と新しい社会課題
現代社会は、高度にネットワーク化され、相互接続された「繋がり過ぎた世界」でもあります。「繋がり過ぎた世界」は、時間や場所を超越し、究極の利便性をもたらすと同時に、人々をある種の不安に陥れています。自分に関わる様々なデータが知らないうちに何かに利用されているのではないかという不安です。これはまさにITがもたらす功罪と言えます。コンピュータの高性能化と小型化、インターネットの普及とソフトウェア技術の高度化、これらのイノベーションがあらゆる人・モノ・カネの関係性を制御するようになりました。
現代のビジネスの世界においてITなしの経営はあり得ません。個人の生活においてもITなしの日常はあり得ません。そして、ITとインターネットの発展により、世界は均質化、差別化の消失へと向かっています。既存のビジネス領域における「正解」は益々コモディティ化し、レッドオーシャンだらけで、なかなかブルーオーシャンが見えないビジネス環境になってきました。一方で、均質化が進んでいるように見える世の中でも、富の偏在は益々進んでいます。テクノロジーに対するリテラシーの差がもたらす新たな格差とも言えます。
「繋がり過ぎた社会」は、新しい社会課題を生み出しているとも言えるでしょう。そして、ITの技術を持ってすれば、解決できる新たな社会課題も沢山あると思います。ITの力を使って社会を再設計するめには、現代の世の中の文脈や空気を読み取ることが重要です。そして、そこに流れるストーリーに思いを巡らすことが重要です。日本の文化は非常にハイコンテクストだと言われます。現代ほど、日本人の文化や感性が世の中の課題解決に役立つ時代はないだろうと思います。使い方さえ間違わなければ、AI技術も人間の一部の仕事を代替し、補助し、きっとこれからの社会をもっと豊かにすることに貢献してくれるでしょう。
■知識を人間の叡智に昇華する
イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリは、世界的なベストセラーになった著書「ホモ・デウス」の中で、シンギュラリティによる人類の悲劇という、ディストピア的未来予測をしています。テクノロジー至上主義、データ至上主義への警鐘ともとれます。かつて、資源は有限というのが定説でしたが、現代における資源とは、原材料やエネルギーのような有限なものだけではなく、知識をも含むと彼は述べています。知識は増え続ける無限の資源であり、この知識を膨大なデータの単なる集合として扱うのか、人間の叡智に昇華することが出来るのか、そこがディストピアになるかならないかの大きな分かれ道ではないかと思います。
SSDCには、「人と社会の幸せな未来のために」活動するという大きな目標があります。幸せの定義は人によって違うと思いますが、共同体の一部に自分が所属し、その共同体の中にいる他者を信頼し、他者のために貢献していると認識出来ること、そう思えることは全てSSDCの活動の範疇に入ると思います。AIなどの新しい技術を活用して、もしそれが実現出来るとすれば、本当に素晴らしいことですし、そうすれば、ユヴァル・ノア・ハラリが危惧するような世界はやってこないと思います。
■より良い社会を残すことが使命
現在、世界は、新型コロナウィルス(COVID-19)のパンデミックという第二次世界大戦以降の最大の危機に直面しています。前述のユヴァル・ノア・ハラリは、ポスト・パンデミックの世界において、何が重要な課題になるかということに対しても積極的に発言しています。国家がITを活用し、人の行動制限を強化すれば、全体主義的な国民の監視というリスクが浮かび上がります。また、夫々の国が自国だけを守ろうとすれば、他国からその国は孤立するでしょう。パンデミックが終息したら、市民の権限が大幅に制限される世界や、グローバルな結束が自国第一主義に凌駕される世界が訪れたていたらどうでしょうか。ユヴァル・ノア・ハラリが指摘する重要な課題とは、まさにこのリスクのことです。恐らく、そんな状況を望んでいる人は少ないでしょう。しかし、起こり得ることだと思います。
即ち、テクノロジーは、どの様に使われるかが一番の問題なのだと思います。それを使う目的と、誰が主体性を持って使うのかということです。そのためには、一人ひとりが社会の中で責任を負っており、世の中は勝手に良くならないということを自覚することが重要だと思います。人間は必ず間違いを犯します。歴史とは人間の間違いの集積です。ユヴァル・ノア・ハラリの未来に対する洞察が深いのは、数々の歴史上の人間の愚かな間違いを知っているからに違いありません。我々はITを活用して社会を良くすることも出来ますし、悪くすることも出来ます。「人と社会の幸せな未来」は向こうから歩いてきません。自分達が未来を創るのです。
昨今、「人生100年」と言われますが、本当にそうでしょうか。100歳まで生きていることと、100歳まで認知症にもならずに健康でいるということは全く別の世界です。100歳まで自己実現欲求に縛られるよりも、人生は必ず終わるものと捉えて、生きている時間を人生の深い学びの場とし、社会に何を残すかを考えることは、100年生きることよりずっと重要なことだと思います。より良い社会を後世に残すことは、我々の使命です。